生協運動の原点・灯油裁判を振り返って

灯油裁判とは

1973(昭和48)年、中東戦争に端を発した「石油ショック」は、消費者運動の歴史上忘れられない出来事となりました。石油元売メーカーが海外紛争を絶好の機会として闇カルテルを結び、灯油の小売価格を突然10倍につり上げたのです。毎日の煮炊きや寒い冬の暖をとるために、灯油は当時暮らしの必需品でした。独占大企業の横暴に泣き寝入りしてはならないと、川崎生協の組合員と主婦連合会の会員あわせて98名が、東京高裁に元売各社を相手どってマンモス訴訟を起こしました。同時に鶴岡生協も山形地裁鶴岡支部に提訴。「東京灯油裁判」と「鶴岡灯油裁判」という2つの消費者裁判が同時進行で、約15年にわたって闘われました。
この「灯油裁判」は最終的には敗訴となったのですが、消費者運動としては大きな勝利を手にすることになりました。「消費者を敵にまわせない」ことを産業界全体に知らしめるきっかけになっただけでなく、学者やマスコミを巻き込んで世論を起こし、のちの独禁法の強化(1977年)、PL法成立(1995年)、民事訴訟法248条の改正(2006年)まで、脈々とつながる「消費者の権利の確立」の出発点として、大きな意義のある裁判となったのです。

消費者運動の原点

灯油裁判をたたかった15年…1973年

灯油については、1973(昭和48)年秋は、前年1缶270~300円だったのが500円にも値上げされる状況でした。
メーカーの買い占め・売りおしみで値上がりが予想される中、横浜生協は組合員に「登録制で灯油獲得に努力します」と通知を出しました。それが1ヵ月も経たないうちに配達が遅れがちになってしまいました。メーカーが「前年実績の35%カット」を通告してきたからです。
横須賀生協では灯油を確保するため、組合員が職員と一緒に市内のガソリンスタンドを軒並み訪問しました。

こうした中、国内の大手メーカーの11月在庫量が、前年より5.4%も多く備蓄されていることがわかりました。
“灯油不足”はメーカーによって人為的につくり出されていたのです。しかも一斉に価格をつり上げることで、この年の10月から12月の3ヵ月間だけで、600億円もの利益を出していました。これを知った組合員は、抗議行動や裁判闘争を起こしたのです。

元売りメーカーと交渉し必要全量を確保

1973年12月、神奈川県内の生協組合員2,000人が集まり、決起集会を開きました。集会は熱気につつまれ、そのあとのデモ行進では、「灯油よこせ」のかけ声に合わせていっせいに石油缶を打ち鳴らし歩きました。
石油元売りメーカー11社との交渉に参加した各生協の組合員200人は、それぞれの実情を訴えました。
この交渉の結果、「前年実績のカットはさせない、新規に増加した分も、メーカーの共同責任で予約全量を確保させる」という回答を引き出すことができました。

灯油関連年表