【かながわ】あの日を忘れない~被災している時こそ温かい食事を~

2022年3月24日

~県央2エリア会~

被災して心も弱ってしまった時こそ、温かい手作り料理が心の栄養にもなると言われています。また災害時にはライフラインが止まり、作る時間や調理器具も限られてしまいますが、そんな時におすめなのがポリ袋調理。少量の水とカセットコンロがあれば温かい食事が完成!心も元気に!

いざという時のために、まず自宅で一度体験・練習してもらえるよう応募者全員にポリ袋レシピを送付しました。また3.11を振り返ってその思いを募集し、防災意識を高めるきっかけとしてもらいました。

ポリ袋レシピは袋に材料を入れて、鍋に放っておくだけ。意外に簡単!美味しい!上手に作るコツやおすすめの温まるコープ商品もお知らせしました。

被災して心も弱ってしまった時こそ、温かい手作り料理が心の栄養にもなると言われています。

でももしライフラインが止まってしまったら、作る時間や調理器具も限られてしまいますよね。

そんな時には短時間、少ない調理器具で作れるポリ袋レシピがおすすめ。

いざという時のために、まず一度体験・練習しておくといいですね。

また、96名と多くの方が、当時を振り返り、それぞれの思いを送ってくれました。共感できるものばかりで、少しでも多くの方と共有したい!と思い、「振り返り集」を作成。応募者全員に送付しました。

少し長いですが、全文をこちらにも掲載いたしますので、ぜひご覧ください!

・家族でみなとみらいにいました。買い物中にかなり揺れて騒然としました。その後すぐに帰宅し、ニュースを見て愕然。その日はたまたま休みの夫と1歳の長男と一緒にいたのが幸いでした。すぐに連絡をした仙台の友人から返信がきて安心したのを覚えています。(I.A.さん 30代)

・ちょうどコープで買い物をしようと、肉売場に行った時に地震にあい、その時に店員さんが一生懸命声をかけて下さり、商品の所から離れて、少し待機していました。とても怖かったです。(T.F.さん 50代)

・11年前、わたしは新宿でOLをしていて高層ビルの20階にいました。初めグラグラと揺れ、あれ?と思った瞬間かなりの揺れが訪れ、すぐに部屋を出ました。廊下に同僚と抱き合って、揺れるビルに耐えるしかありませんでした。荒れた船に乗っているような感覚です。その後はパニックになる自分をおさえて一旦ビルの外の広場に待機しました。交通機関も使えず帰宅難民になりました。朝方には電車で帰宅できましたが、その後は何かと不便な日々を過ごしました。東京であんなに怖い思いをしたのですから、震源地に近かった方々の事を考えると辛くなります。あの日をどんな想いで再び皆さん考えるのか。その思いを知りたいなと思いました。みなさんがいま、幸せで笑顔で居てくだされば嬉しいです。(つーしゆんさん 30代)

・当時大学生だった私は、前日にディズニーランドに遊びに行き、近くで一人暮らしをしている友人の家に泊まらせてもらっていました。震災が起き帰宅できなくなり、水道も止まってしまい、食事や水を買いに行きましたがどこにも売っておらず。仕方なくロックアイスを買って溶かして水にしましたが、冬場でとても冷たかったです。日頃から食料や水を備蓄することの大切さを実感しました。(かえるさん 30代)

・バイト先で被災しました。メールもなかなか届かず電話もつながらず、状況がわからずに同僚たちと怯えるなか、唯一使えたSNSがTwitterでした。なぜかTwitterだけは動いてくれてたので、大切な人たちとそれで連絡を取り合うことができました。大変な瞬間に人と人とをつなげてくれたTwitterには感謝しています。

(まりさん 30代)

・小学校次年度のPTA引き継ぎの集まりの日でした。終了間際に地震が起きて教室の窓の下の池がザブンザブンと外に溢れていました。会議は終了して揺れの収まったのを見計らって校庭に集まっている生徒の元へ今期と次期のPTAが急ぎました。停電の為小学校のパソコンも使えず父兄にお迎えの連絡もできないため急遽たまたま居合わせた私たちが近所の子供達をそれぞれ受け持って各家庭に送り届けました。私は日本中が停電になっていると思いました。東北の状況も津波の事も後になって知りました。今でもあの時に一緒に帰った娘は言います。「あの時ママが一緒で良かった」と。数日間の夜のロウソクで過ごす日々を忘れません。

(まさこさん 50代)

・この日はパートで仕事中でした。早めに帰って良いと言われましたが電車も止まり街灯も消えて真っ暗…とても不安で怖かったです。携帯電話も繋がらず、公衆電話からやっと家族の安否確認が取れた時は本当にホッとしました。(minさん 50代)

・約11年前の3.11の日、一歳半だった長女とお昼寝中、いきなり大きな横揺れと棚が倒れてきたので慌てて娘を連れて台所に避難。次女を妊娠中だった為お腹が張ってしまい身動きがとれず。停電し暗い部屋に半日取り残されてしまい、不安もあったが主人の母が急いでろうそくや懐中電灯を持って来てくれて安心した。あの日ほど人の暖かさに触れた日はなかったと思う。(かおりんださん 30代)

・震災の時、自宅で幼稚園児のこどもと二人でいました。大きく長く続く揺れにただただ驚き、こどもと二人で机の下に身を隠しました。自宅では落ちたり壊れたりしたものはありませんでした。やがて下校してきた小学生のこどもが無事でほっとしました。ニュースをずっと見て、遠くで大変なことが起こっているのは理解しましたが、それが自分たちにも関わってくることだとはわかっていませんでした。(コスモさん 50代)

・都内で仕事をしていました。港区から自宅の横浜市まで、徒歩で帰宅しました。4時間ほどかかりました。

すごい大勢の人が歩いていたので、寂しくはなかったですが、すごい光景でした。(matsumiさん 30代)

・埋立地に勤務していたため道路が液状化し歩くのも困難でした。駅へ向かいましたが電車もバスも動いておらず更に歩いて大きい駅へ。家までは歩けない距離だったのでホテルへ向かうも満室。上司や家族とのやり取りで携帯の充電も無くなり同僚とカラオケの一室で過ごしました。家族と連絡とれない不安はとても怖かったです。カラオケの画面でをテレビにしはじめて現状をしり更に怖くなりました。あの事があってから常にスニーカーとリュック、充電器は常備して出勤しております。(ののちゃんさん 30代)

・相模原市の自宅で1歳になったばかりの子と、小学生のお兄ちゃんの帰りを待っていました。懐中電灯の電池が切れている事に気づき買いに行ったところ品薄でした。ミルクに使う水やオムツもすぐに売り場からなくなりました。赤ちゃんがいる家庭はある程度のストックが必要だと思いました。幸い計画停電にならずに済みましたが、家族が無事で住む家があり、電気ガス水道が使える普段の生活が、いかに有難い事なのか改めて実感しました。(ケリーさん 50代)

・あの日は学校で卒業式があり、午前中で子供が帰宅。朝から子供の調子が良くなく、お昼ご飯の片付けと同時に、夕食の準備もしてしまい(功を奏しました)、のんびりしていた所に地震でした。停電になり、夜の不安の為、とりあえず買い物に行くと、コンビニでは電卓でお店の方が計算をしていました。もうめぼしい商品(食品)がなくなるのは、時間の問題のようでした。とにかく停電解除まで、電話が繋がらない、情報が分からないのがきつかったです。友達は、おばあさまが1か月後に見つかったそうで、何と言ってよいのか、本当に分からなかったです。津波さえなければまだ・・・と今でも思います。忘れてはいけない日だと思います。

(しめじさん 40代)

・あの日あの時は本当は仕事だったけれど、たまたま自宅で過ごしていて、地震の揺れにただ事でなさを感じ、テレビをつけると、今まで見たことのない映像がずっと流れ、恐怖で怯えました。だいぶ昔のことのようになりつつあるけれど、私も結婚して子どもも生まれ、大切で守らなきゃいけない存在ができ、災害への備えを身にしみて感じて、必要なものを取り揃えていきたいと感じています。家族との連絡方法や避難場所の確認など、家族との調整やまだ足りないものの準備など、やることはたくさんあります。(yuriffiyさん 30代)

・下の子と幼児サークル活動で出かけ、帰宅後すぐに地震は発生しました。リビングのテレビがユッサユッサと揺れていて、本当に怖い思いをしました。まもなく上の子が小学校から帰宅。先生方が生徒だけで一斉に下校させていました。今では考えられないことで、当時の防災減災意識の弱さがわかります。下の子は当日を覚えていませんが、上の子は怖かったと、今でも言います。クラスには怖くて泣いてる子がいた、とも。計画停電中はオール電化の我が家では事前準備をぬかりなくすることが私の使命で、温かいご飯が食べられないこともありました。体も心も温かいものが必要です!(G.Y.さん 40代)

・当時は、次男が産まれて横浜の実家に里帰りしている時でした。退院してから約一週間後。長男はまだ2歳になったばかり。リビングで一休みしている時に突如揺れました。建物の構造上揺れが大きく、食器棚から食器は崩れ落ちて割れ、テレビは傾き、冷蔵庫はガタガタと揺れ前に進み今にも倒れそうでした。家が崩れて死んでしまうのではないかと一瞬青ざめました。幸い怪我も無くみな無事でした。そして津波のニュースを見て愕然としました...。その後数年テレビや携帯の警報音にとても怯えていた長男は、中学生になりました。命があるありがたさを忘れないよう過ごしたいと思います。(ごん太さん 30代)

・保育士をしています。あの日、私は就職して1年目の3月でした。まだ子どもたちはお昼寝中。ぐらっと揺れたあと、強い揺れが襲いました。急いで子どもたちを起こし、まだ眠たい子どもたちを集め、マットをかけました。その後、停電。はじめてのことだらけで正直不安でした。子どもたちの前ではいつも通りに過ごし、保護者へ早いお迎えを要請しました。全園児が帰り、いざ自分が帰ろうと外へ出ると、真っ暗。電灯もついてない、信号もついていない。幸い、自転車で帰れる距離だったため、事故のないよう気をつけながら帰りました。家族は職場が遠く、家に帰っても真っ暗な中一人ぼっち。夜になり、やっと電気が通ってテレビをつけた瞬間、血の気が引きました。津波の映像をみると今でも心がえぐられるような気持ちになります。あれから11年。震災を忘れない。と思いつつも、時が経つにつれ段々とあの感覚を忘れかけていました。思い出す良いきっかけを作ってくださりありがとうございます。またこれを書いて防災グッズの確認がここ最近できていないことを思い出しました!!いつまたあの震災が起きても大丈夫なように。。。年に一度は点検しなくてはと反省しました。(とうにゅうまめさん 30代)

・たまたま仕事が休みで寝てたら、突然の揺れで起きて外を見たら木々が大きく揺れてた。電気も通らずびっくりした。(I.H.さん 30代)

・その日は、調理の後片付けをしている時でした。直ぐに火を消しましたが、鍋のお湯が溢れて、すごくドキドキして怖かった覚えがあります。(スミレさん 60代)

・当時、関西に住んでおり、丸一日出かけていました。家に帰って津波の映像がニュースでずっと流れているのをリュックを下ろすのも忘れて呆然と見ていた記憶があります。微力ながら復興に協力したいと思います。

(ちゃんぽんさん 20代)

・神奈川県横浜市の職場で製造業の仕事をしていました。揺れは、凄かったですが、ガスボンベとか倒れなくて、たいした被害はなく良かった。実家が福島県いわき市にあるので、コロナが以来、今年、久しぶりに帰省しました。実家は無事でしたが隣りの街は流されてしまいました。東日本大地震は他人事ではないです。

実家に帰った時の自宅前の海岸の写真を添付致します。(ぐっちさん 40代)

・地震発生時、当時2歳の次女がトイレに入っていて、早く出てーと叫び、次女をかかえて外に出ました。

主人から携帯に電話があり、お互いの無事を確認できましたが、それ以降電話は繋がらず、電車も止まり、主人が帰宅したのは夜遅くでした。長女は当時小学生で学校の校庭に避難し、上履きのまま手ぶらで帰宅しました。横浜でもこんなに慌ててしまったので、被災地の方の恐怖や不安な思いを考えたら、とても辛かったと思います。(みらのぞママさん 50代)

・私は就職活動中でした。アナウンサーになるため、エントリーシート(履歴書)にはる写真を写真スタジオまで焼増しをお願いしに行くと、スタジオの人は皆テレビに釘付けでした。その時、私は何も知らず家に到着して知りました。びっくりしたと同時に、私はアナウンサーになって何を伝えることができるだろうかと毎日考え続けていました。(H.M.さん 30代)

・サークルのランチにレストランの中で揺れました。店員の誘導で店外に避難。駐車場で消火栓の泡が噴出して帰れるのかどうかでした。揺れが収まり店の会計を払いに戻りました。その後店に聞いたところすべての客が支払いに来たそうで、良い地域だと思いました。(さとのりさん 60代)

・3.11.あの日は自宅にいて子どもの帰りを待っていました。当時は東京都下に住んでいましたが、急に激しい揺れがきてダイニングテーブルの下に隠れました。確か何度か揺れがきて、これはただ事ではないなと感じました。夫が休みで家にいたので幼稚園の迎えに行ってもらい、私は小学生の息子の安否が気になったので、家の近くまで出て行くとちょうど150メートルくらいの所で会えました。息子はたまたま出てきたコンビニの店主さんに、道路の中央でしゃがんで揺れがおさまるのを待つように言われたそうです。当時低学年の子どもにとって頼もしい声掛けだったと今でも感謝しています。(だいふくさん 50代)

・あの日は息子の幼稚園で最後の大掃除があった為、4才の娘を祖父にお願いして外出しました。幼稚園では園児は園庭で遊び、母親は大広間の木の床に列を作って、雑巾がけレース並みに和気あいあいと楽しみながらの掃除が毎年の風景でした。でもその最中、体感したことのない揺れを感じ、恐怖と共に息子を早く自分の元へと急いで園庭へ出、息子の名前を叫びました。駆け寄って来た息子を守るように抱き締めホッとした時、下の娘と祖父は?と不安がこみ上げ急いで電話で確認しました。すると今度は実家は大丈夫か?私の弟は?親戚は?と心配が数珠繋ぎの様にて出来て頭がパニックでした。でももっと衝撃だったのは、信号の止まった普通ではない町を自転車で帰宅してから見た津波の映像です。理解できませんでした。涙がでました。信じられませんでした。この夜は、余震から子どもを守らなければという思いで車で寝る事にしました。恐怖は続きましたが、建物に潰される事は無いし、子どもも手の届く所に居ると言うことで安心はありました。この先どんな時でも家族は近くに居てほしいと感じました。(もりもりさん 40代)

・当時は治療が難しかった肝炎ウイルスの血液検査のため、病院でちょうど採血していました。今までにない揺れの大きさに看護師さんから「すぐ帰ったほうがいい」と促され、まだ混み合う前のバスで無事帰宅できました。計画停電でしばらく不自由な日々も経験しました。今は新薬のおかげで寛解しましたが、月日の流れをあらためて感じています。(木霊さん 50代)

・社会人1年目で、(東京)晴海付近の会社で仕事をしていました。

電車はなかなか復旧しなかったため、歩いて帰宅する方もいましたが、余震がどのくらい続くか分からず、また、自宅が神奈川で、電車でも1時間半かかるため、私は体力に自信がなかったので会社に泊まることにしました。上司が会議室を女性用に用意してくださり、会社に泊まることにした数名の女性たちと会議室に泊まりました。夜中に何度も来る余震で安心して眠れず、、その度に一緒に泊まった方々(その日までは知らない方)と肩を寄せ合いました。携帯もなかなか繋がらなかったため、家族は今大丈夫なのか、歩いて帰った方々は大丈夫なのか、この後どうなるのか、とても不安でとても怖かったです。とにかく家族が、大事な人たちがどうか安全に元気で、生きていてほしいという想いで過ごした長い夜でした。(はなさん 30代)

・職場で仕事をしていました。高層階にいたのでビルの揺れが大きく感じ、いつまでも揺れていて怖かったです。初めて体験した大きな地震で、パソコンのスクリーンが倒れそうになっていたので机のしたに隠れながら必死に手を伸ばして押さえていました。(わがまま娘。さん 30代)

・当時東京の大学生で、買い出し出かけるところでした。電車は止まり、駅の電気屋のテレビに人が殺到して、みんなで津波の映像を見ていたのが忘れられません。母の判断にしたがい、高速バスが止まる直前に実家に戻ることができて幸いでした。今は子供が産まれたので、これからは私が守る側になりました。緊急時のシミュレーションや、迅速な判断を普段から心がけたいと思います。(ザッキーさん 30代)

・仙台に行こうとして福島駅にいました。無事に東京に帰ることができるか不安でしたし、何かしたほうがいいか考えていました。(A.M.さん 40代)

・インフルエンザで学校を休んでいた息子と一歳の娘を守らなければと思っていました。落ち着いた後は都内で勤務している夫や妹の帰宅が心配でした。初めての経験で緊張しましたが、家族が揃った時、普段の生活のありがたさを感じた事を覚えています。(お肉大好きさん 50代)

・あの時、私は大学生で春休みでした。地震直後、郊外のアウトレットモールにいたため、すぐ安全な所に移動することができましたが、今まで体験したことの無い大きな揺れだったことを今でも覚えています。車で帰宅しようとすると、信号が故障していたりして大渋滞で、都内の自宅についた頃は夜中でした。お店では食料品等が品薄でしたが、母が日頃から備蓄を沢山していたので家族内ではどうにか過ごすことができました。今は私も母となりましたが、母のように備蓄をしてローリングストックをしています!(ぽてとさん 30代)

・2011.3.11私は運良く仕事も休みで、神奈川の家のこたつでのんびりと過ごしていました。あの瞬間。

築30年を越える木造住宅が大きく揺れました。ただ事ではないと家族と外に出たら、他の家からもちらほら人が。東北ではもっと凄いことになっていて、そちらに住んでいる友人達に連絡するも、返信は翌日以降。幸い私は友人全員と連絡はとれましたが、とれない人々も多く、テレビで見る光景は、別世界でした。自然災害とはいえ、予防できる世になって欲しいです。(むこうさん 30代)

・当時は九州にいたため、TVの中のことが現実に起こっているのか、実感がなかったです。学生だったこともあり、他人事のように考えていましたが、今家族ができて、きちんと備えておかなければいけないなと実感しています。(E.M.さん 30代)

・実家の茨城県で被災しました。0歳と3歳の子どもを連れて帰省していた時でした。停電と断水が辛かったです。夜は極寒でした。余震が続いていたので、家が倒壊するかもと心配でした。夜は赤ちゃんは自分に括り付けたまま、座って靴を履いたまま仮眠しました。実際、何度か夜中に走って外に出ました。何かあっても警察も消防車も救急車も来ないという状況が、とてつもなく恐ろしかったです。被災した瞬間から着のみ着のままになることを知ったので、あの日以来、私はパジャマは着ません。(きまきまさん 40代)

・当時、小学校で働いていました。地震が起きた時、子供達の下校直後だったので、私は職員室を飛び出し揺れが続くなか、校内に子供達が残っていないか必死に探しました。教卓の下に半泣きになってる児童を見つけ、状況を見ながら校庭に避難。校庭には下校途中で引き返してきた子供達や近所の方々が避難していて、皆さん顔面蒼白だったことを覚えてます。ご自宅の安全状況を保護者さんに確認してもらって、全ての帰宅できるとのことで帰宅しました。地震の規模が大きければ、自宅も確認出来ないまま避難することもあり得ることを考えると、避難場所として備えてだけでなく、自分自身の心構えもしっかしておかなければならないと痛感したことを覚えてます。(H.M.さん 40代)

・口座開設の為みずほ銀行にいました。銀行に備蓄されていた防災ヘルメットを借りて、ロビーテーブルの下に潜りました。阪神大震災も経験していますが、それでも揺れがこのまま終わらないように感じました。

歩いて自宅に帰りましたが、電気はつかず、マンションの為、水も出ず。停電、断水は初めての経験でした。

毎日過ごす中で、当たり前に思っていることのありがたさをすぐに忘れてしまいますが、こうやって振り返ることで、あの時の気持ちを忘れないようにしたいです。(むーにゃんさん 40代)

・5キロほど離れた職場から歩いて子どもを迎えに学校へ。自宅は停電していましたが何も被害はなく一安心。真っ暗な部屋でカセットコンロを使って子ども達と夕食を食べ、早々に布団に入りました。夜中に電気が復旧し、テレビで東北が震源地だったこと、大津波が襲ったことなどを知りビックリしました。てっきり関東地方が震源地だと思っていたのです。早く正しい情報を入手して行動しなければいけないと思いました。

3/11あの時、下の娘2人と自宅にいました。揺れが大きくなったので娘達をテーブルの下に入れ、私は食器棚を抑えていましたがどんどん揺れが大きくなり、私もテーブルの下に入り娘達を抱きしめて揺れが納まるのを待ちました。そのまま停電になり、暗い夜に。ガスがついたため、非常用の水を使い蕎麦をゆでて食べ、トイレはまとめて流したら、お風呂の溜め水を使いました。日付が変わる頃に電気が復旧しました。やはり、非常用のペットボトルの水とお風呂のお湯は大切だと実感しました。今でも水はキープしています。

(ケイコさん 50代)

・震災が起きた時、私は仕事の休憩中でした。飲食店だったので火災など起きたら危険なので急いで売り場に戻り火の元を確認しました。ただごとじゃない揺れに心臓がばくばく、夢でも見てるんじゃという気持ちになったのを今でも覚えています。(ゆかりんさん 30代)

・その時間、自宅にいたので良かったが家具などがどうなるかと気が気でなかった。次の日、職場まで利用している交通機関がだめになっていたので、歩いてみた。鍛錬していたら大丈夫だっただろうが足腰ガタガタになった。普段から万が一を考えて、備えないといけないと思った。(さかなさん 60代)

・2011年3月11日、主人の病院に行くため駅でバス待ち、アスファルトが波打ち、周りのビルが揺れ大きな音がし、大変怖い思いをしました!手術の日、こんな時に何故?何とかバスに乗ったものの病院の玄関は人がいっぱい、主人はもう、手術室へ。しかし手術できずすぐに戻ってきました!その後私が乗ったバスが最後で動かず、電車も止まり連絡し家族が迎えに来たのは夜8時を過ぎていました!二週間後主人は最後の帰宅をし、その一週間後病院で息をひきとりました。私は福島の皆様と同様自分も震災にあったように絶対に忘れられない日となっています!もうすぐ命日が、手を合わせたいと思います。(大根ちゃんさん 70代)

・あの日、中学生の息子さんが夕方になっても帰宅せず、学校に電話しても全く通じない事態にあたふたしてました。4時半にやっと帰って来て状況を聞くと部活などで校内にいる生徒を校庭の安全な場所に移動させ、余震に警戒し2時間待機したのち教師な分担して集団下校させたと聞き安心したのを覚えています。

今は、非常時の対応をきちんと前もって決めてる事にしてあります。(しずしずさん 50代)

・11年前、私は横浜市の看護学生の2年生でした。先輩方の卒業式間近であり、学校の最上階にある講堂で卒業イベントの準備中でした。大きな地震があり、幸い講堂だったので物が倒れてきたり、ということはありませんでした。そのためか少し大きいけど普通の地震かなと思いました。しかし、窓から電波塔のような建物が見えた時、メトロノームのように揺れていて、こんな大きな地震は体験したことがないと気付きました。そんなことがあったものの、もともと徒歩通学だったため、いつも通り歩いて帰り、自宅で倒れたものを整えました。実家も関東なので大きな影響はありませんでした。そんな中、地方の友人は家族と連絡がとれないと泣きながら電話をしていたり、放課後アルバイトがある人は歩いて現地に向かうなど苦労していました。それからテレビで現地を報道しているのを見て、大変なことが起きていると思いました。でも、地方の友人や帰宅困難者ほど、心を揺さぶられてはいなかったのではないかと思います。周囲がざわめく中、あまり実感のなかったことを思い出します。だからといって、地方出身や帰宅難民になったわけでもない私がざわつくのもおかしいので、あくまでも普通に過ごしていたように思い出されます。うまく話せませんが、これが当時の私の出来事と感覚でした。(あどさん 30代)

・2011.3.11は本当に恐怖でした。生後2ヶ月の息子を抱っこ紐で抱っこして買い物に行く途中でした。突然、目の前の景色が歪んで、足元がふらついたので、一瞬、貧血になって倒れるのかと思いました。「これは地震だ」と思った瞬間に電柱や地面が揺れ、目の前の子どもを守る事に必死でした。視線の先にはコープの店舗から人がたくさん出てきて店の外に避難していました。あれから、もう11年も経つのにあの時の光景は忘れられません。あの時、抱っこ紐の中でスヤスヤ寝ていた息子は4月から小学校六年生。3.11の事を知らない世代です。これからしっかりと伝えていきたいと思います。(げんきママさん 40代)

・当時香川県に住んでおり、幼稚園児の娘と広島県にある実家に電車で向かっていました。乗った電車が逆方向で1時間予定より遅くなるので、迎えに来てくれる家族に携帯電話で連絡しようとしましたが、電話が暫くつながりませんでした。連絡手段が携帯電話しかないのになかなかつながらず、とても焦ったことを覚えています。(サボテン@さん 40代)

・あの日は、友人の誕生祝いの為に、藤沢で食事をしていました。ソロソロ帰ろうとして席を立った途端の出来事でした。取り急ぎ外に出たものの立っていられず多くの人々と一緒にうずくまりました。JRはストップしていたのでバスで大船に出て、一時間かけて徒歩で帰宅しました。藤沢のバス乗場を少し前に調べていたのが幸いし、運良く乗れましたが、少し後だったら、乗れなかったと思います。道路は車で渋滞し始めていて、あの一台を逃していたら、信号も止まって、動けなかったと思います。まだ携帯を持っていなかったので、家族への連絡もできず、重い荷物を呪いながら必死で歩き続けました。公衆電話は長蛇の列で、携帯の必要性を実感しました。毎年3/11はその時会っていた友人と話します。生きている喜びとあの時の咄嗟の判断で大船迄のバスに乗れたこと、大船から家までのバスにはもう乗れませんでした。いざという時どう行動するかのシミュレーションを日頃しておく重要性を痛感しました。備えあれば憂い無しです。水筒に残りがあったのも幸いしました。途中のコンビニでは飲み物が全く買えませんでした。自販機が動かないし、店の棚はほとんど空でした。ゾロゾロと並んで歩く人の列!スニーカーで良かったとつくづく思いました。あれからは、スニーカーとリュックでの外出が基本になりました。又どんな時も水筒を持ち歩いています。(はまのミッチーさん 60代)

・結婚したてで一人で遅めの昼食中に震災が起こりました。とても不安で、何も出来ずにテレビをずっとつけていました。電車がストップし、主人は帰ってくることが出来ないので、その日は実家の母に車で迎えに来てもらいました。でも、ものすごい渋滞で真夜中に実家に到着し、不安と安心と申し訳なさと複雑な気持ちでした。 

(B.R.さん 40代)

・仕事の夜勤明けで寝ていました。突然大きな地震でテレビが落ちてきました。

経験したことのない地震に驚きました。仕事帰り休む前にちょうどたくさん買い物をしていました。そのため、運良く食料には困らずでした。夕方には、帰宅困難な方が溢れている様子でした。(K.A.さん 30代)

・薬局勤務で仕事中でした。子供たち3人がどうしているかが心配でした。小学1年生の次女と小学3年生の長女が下校時刻を過ぎてすぐだったので、帰宅途中で大丈夫か?どうしているか?自宅に電話してもなかなか繋がらず、状況が心配でした。学校を出てはいなかったので、校舎から離れた校庭で待機していて、主人の仕事場が比較的近くだったので迎えに行きました。保育園にいた長男もその後迎えに行き、子供達は父親と一緒に帰宅できました。薬局は停電していましたが、その中でも診療を続けているクリニックがあり、薬局も続けるしかありませんでした。私は電車で2駅分からずの職場から、電車が動かなかったので徒歩で帰宅しました。夕方のニュースで見た津波の光景、あまりの凄まじさに涙が出てきました。(りょうたんママさん 50代)

・2011年3月11日は4月から入社予定の会社でアルバイトをしてました。先輩と車に乗っていたところグラグラっとして道路でどうしたらいいかわからず不安な気持ちになったことを覚えています。訓練では平気でも実際に地震がおきるとスムーズに動けないものですね。他人事のように思わずいつでも備えておきたいです。

                                        (ほとりさん 30代)

・あの日は出かけていて駅で降りたら、スーパーで買い物をしていました。エレベーターは止まりました。

帰宅後、急いで子供を迎えに小学校へ。子供はジャングルジムの上に上がっていました。関西に住む母からすぐに電話があり、お風呂に水をはる事、すぐにお米を炊くことを言われました。主人は取引先の会社にいて、新宿で泊まると連絡がついたのは、かなり遅くでした。連絡をとる最低限の必要性を感じました。(きんちゃんさん 40代)

・就職活動で集団面接真っ最中でした。関西でしたが高層ビルでとっても揺れたのを覚えています。でも面接中なので、学生も面接官も誰も顔色を変えず。面接終了後、みんなで話しながら駅まで帰りました。

本当に怖かった。関東に就活行って帰れなくなった友達もいました。いつどこで起こるかわからない、だから最善を尽くして備える。これが私の3.11の教訓です。(ねねちゃんさん 30代)

・新宿区の職場で地震に見舞われました。テレビで東北で津波やコンビナートの火事などが起こっているのを知りました。都心部で電車が運休になったことも知り、職場近くの上司宅に同僚6人で一晩泊めてもらいました。助けを待って寒い思いをしている人達を思うと、部屋で布団で寝られることがありがたく、もうしわけなく…発震以来の緊張感でクタクタで浅い眠りに落ちるのですが、何度も鳴る緊急地震速報と余震で現実に引き戻され、夢との境目がよじれてごっちゃになるみたいで不安な夜でした。(ぱににさん 40代)

・当時、横浜で認可保育園の0歳児の担当で、おやつの時間に大きな揺れを感じた。子供を怖がらせないように保育士たちが声をかけながら頭上を囲んで揺れがおさまるのを待った。近所から火が出たらすぐ避難しなくてはならない思いで、バギーにオムツやミルクなどを準備したことが思い出される。幸い揺れはおちつき、お迎えも近所に住む祖母などが迎えに来てくれ、0歳児全員早い時間に降園することができた。しかし、夜の12時をまわってやっと歩いて迎えに辿り着く保護者もおり、交通機関が混乱していた。

 核家族でまわりに誰も迎えを頼む親族がいない場合も、もちろん園では泊りがけで待つことができるが、連絡がとれない場合は前もって、そういう場合どうしたらよいか子供にも保護者にもベストな安全対策を考え、取り決めていた方が良い。私の郷里の園長先生は、地震が起きて30分後に最後の子供をお迎えに来たお母さんに引き渡して間もなく津波にのまれてしまった。思い出すたびに胸が締め付けられる。被害は想定を上回る。町の灯りは消え、火災が発生した。スーパーは1ヶ月復旧しなかった。電気は1週間以上暗いまま。避難所から出るのに8ヶ月を要した。避難所の子は栄養が足りなかった。原発被害で子供の甲状腺ガンは福島だけで136人も発生した。私の孫の住んでいる地域では当時小さな子供からセシウムが検出された。

 しかし11年経っても都市部では逃げる場所も足りないと実感である。安全で広い暮らしを目指すのが減災につながり、助け合いながら自分事として想像することで危険を共有認識できる。誰もが生き延びる事ができる社会を作りたいものだ。(サンライズさん 60代)

・姪に借りたコンサートのDVDを台所で観ていました。とっさにテーブルの下へ。そのあとの地震の映像とコンサートの華々しさの落差。現実と受け止めるのがショックでした。習字に行っていた高齢の母を迎えに行かなくてはという思いと、他の家族もバラバラに学校から帰ってきたり、ただオロオロとしていた気がします。振り返って今、強く思うのは家族で話し合っておくことの大切さ。一人一人がまず自分の身が安全な場へ逃げること。生命が何より大切です。私を助けようと他の生命が危険にさらされたら辛すぎます。他の家族が安全な方へ動いている、そう信じなければ迷って動けなくなってしまいます。3.11からローリングストックをしたり、防災の話を聞きに行ったり忘れられない悲しい記憶です。でも被災された方々の心にもっと気持ちを向けることができたのではと辛い記憶でもあります。今回振り返るチャンスを下さってありがとうございました。(ひかりさん 60代)

・出掛けていて帰りの電車の中でした。まだ子供が小、中学生だったので、とにかく家に帰り着かなくてはならなかったので、歩き始めました。思い返しても意外なほど冷静に、大丈夫!と前向きでいられた。

(A.N.さん 50代)

・普段電車で通勤しているので電車が動かず帰宅困難でした。何とかなるだろうと安易に帰宅に向かったけど…自転車で帰路に付けばよかったな(K.R.さん 40代)

・東京で大学生をしていて、当時住んでいたマンションにいた。すごい揺れや食料不足、計画停電など、様々な不安があった。テレビから流れてくる被災地の映像も気が気ではなかった記憶があります。まだまだ復興の途中だとおもいますが、被災者の方々がいち早く元の生活に戻りますよう祈っています。(Y.Nさん 30代)

・私は、今住んでいるところで自分が体験した阪神淡路大震災の事を考えていていてもたってもいられませんでした。あっという間の出来事で窓が割れ物は吹き飛び外に出るのがやっとで今考えてもゾッとしますが。一瞬にして家が失われ命があった事の喜びだけが救いの現実。東日本大震災もそんな思いの方が多いと思います。

                                    (ちこちゃんさん 40代)

・3.11は本当に恐ろしかったです。また、スーパーから米や牛乳、パンが消えた時は、焦りました。いつどこで地震が起こるか分からないので、備えと気持ちの準備も必要だと思いました。(らんらんさん 40代)

・あの時、息子を迎えに行き車が激しく揺れて路肩で収まるのを待った。信号は切れた。ゆっくり帰宅。家の中は水槽の水が溢れて濡れて愛犬がパニックに。夜、娘の学校まで迎えに行き、親と連絡の取れない同方面の友人二人を自宅に連れて来た。こたつの中に湯たんぽを入れて暖めさせた。停電したので灯油ストーブがあって助かった。(ぬまとこさん 50代)

・仕事中、外出先から予定を変更して早めに会社に戻ったところで震災に遭いました。移動中に被災していたらと思うと、交通機関が停まった中で帰宅困難者になっていたはずです。それ以来、カバンの中に最低限の防災セットを常備、と歩ける靴を履いて出かけるようになりました(あさん 40代)

・当時私は歯科医院で仕事をしていました。いつもより大きく揺れたなとは思いましたが、幸いものが落ちたりすることもなかったのでそのまま午前中の診療が終わりました。休憩でテレビをつけると東北での津波の映像。頭の中がハテナでした。だんだんと状況が理解できスタッフ全員でテレビにずっと釘付けだったのを覚えています。津波の映像は本当に衝撃的で今でも鮮明に覚えています。11日でお買い物をしていると黙祷のアナウンスが流れますが忘れてはならないできごとなので毎年必ずやってほしいです。(H.K.さん 30代)

・自宅で2歳になる子供と、おやつを食べていました。子供が産まれてからは初めての大きな地震で、机の下に潜るのに必死でした。子供は揺れもわかっていないのか何も怖がらずにいたことが救いでした。携帯も繋がりにくいし、自分だけが焦っていたのを覚えています。(しあわせうさぎさん 40代)

・地震の時は保育園に子供を迎えに行っていました。周りの影響は停電くらいだったので、まさかあんなに大きな被害が出ているとは思いませんでした。もっと災害のことを知っておく必要があると感じました。

(ゆみさん 40代)

・家に居ました。年寄りが居ましたのでとにかく庭に連れ出し毛布を取りに行きかけて地震が落ち着くまでじっと待ってました。怖かったです。(テンちゃんさん 70代)

・そのときは、金融機関の仕事中で、お客さんと明日はお休みだねと話をしていました。

揺れた時は不安がる親子のお客さんを避難させ、安心させようと必死でした。自分でも落ち着いて行動しているのにびっくりしました。(K.Y.さん 30代)

・11年前の3.11、私は地元の四国にいました。1つも揺れませんでしたが、ニュース速報で、信じられない真っ黒な津波の映像がずっと映っていたのはまだはっきり覚えています。これは現実の映像なのか?と最初思ったのを覚えています。地震はいつ何時にどこで起こってもおかしくないので日頃からの準備と心構えも必要だと思います。避難訓練等ももっと頻繁に地区などでやるべきだと私は思います。1年に一度だけではなくて。             

(まりもさん 30代)

・育休中でした。次の日からどこに買い物に行ってもいろいろな商品が少なくなっていて、日頃からの備蓄が大事だと感じました。日持ちする食品は大目に買っておくようになりました。(パーチメントさん 40代)

・あの日は友達とランチして店を出たとたんにグラグラと立っていられないほどの揺れびっくりして丁度出た所はバスのロータリーの広場で多くの人が集まって、しゃがんでいました。揺れが落ち着いてから交通機関は止まっていたので二駅歩き家にいた子供に携帯電話で連絡しようとしても繋がらず途中の公衆電話でやっと連絡し無事を確認し小さな個人商店を見つけ人が群がるなか、やっとパンも飲み物確保し帰宅家の中はぐちゃぐちゃガスが止まってました。夕飯はパン、その後ニュースで知り大変な事が起きたと知りました。

(なぼさん 60代)

・まだ学生で、独り暮らしをしていました。当然のように防災グッズを準備していなければ、知識もなく、頼れる人も近くにいなくて大変でした。家族との安否確認を電話やメール以外に知っておくだけでも違ったのかなと思います。(りおりくままさん 30代)

・あの日は都内の会社の事務所にいて地震にあい、帰宅難民になりました。このまま翌日までいようかどうしようかと考えていましたが、都内のアパートにいる息子のところに行くことにしました。深夜少し動いていた都営地下鉄と徒歩で向かい何とかたどり着くことが出来ました。同じ都内にいた娘とその友人も合流し1DKのアパートで翌朝まで過ごし、朝動き出したJRでようやく帰宅することが出来ました。もっと大変な人もいたのでまだ良かった方かもしれません。(kiさん 60代)

・3.11の日は、当時担任をしていた小学校一年生の子どもたちと教室にいました。その当時は防災マニュアルなどあまり統一されていなくて、下校間近で子ども一人で帰らせてしまうクラスもあり、余震で保護者が不安になることもありました。もう11年、忘れかけていることも多いですが防災の大切さを忘れずに過ごしたいです。(りっちゃんさん 30代)

・当時小学一年生だった長男が学校から帰宅し、2歳の次男、5歳の娘を連れて車で耳鼻科へ。駐車場に車を停めて耳鼻科へ歩いている道路で大きな地震が。すぐに停電してしまい診察もできず、信号も着いていない道路を何とか帰宅。でもすぐに停電したお陰で駐車場のロックがされず、車が出せて帰宅できたので本当によかった。(N.A.さん 40代)

・当時、会社員として働いていました。ビルの9階で作業をしていると大きな揺れがドーンという音と共におこり、しばらくビルが横揺れしていました。10分くらい揺れていたのでしょうか。なかなかおさまらない揺れにこれは只事じゃないと感じました。揺れがおさまった後、ネットニュースで東日本に津波が押し寄せて大変になっている事を知りました。少し離れた場所で、非日常的な事が起こっているのが信じられなかったのを覚えています。当時、姉が東京で働いていましたが、電車が止まり、歩いて帰ったという話を母から聞きました。生きているだけでもありがたいと感じた出来事です。(えいちん、さん 30代)

・社宅に越したばかりで知り合いもなく一人で部屋にこもっていました。恐る恐る外を覗くと社宅の方達が集まって避難していました。私にきづくと「こっち、こっち」と手招きして一緒にいましょうと声をかけてくれました。人の温かさが災害時には大事だと思いました。(ケーキさん 50代)

・子供たちが学校から帰宅して少ししてから大きな横揺れがしばらく続いて、皆でテーブルの下で揺れが収まるのを待ち、ニュースで東日本大震災を知りました。夫は会社に泊まり、不安な夜を過ごしました。自宅に子供たちが帰宅していたこと、夫と連絡が取れたことは幸運だったと思います。(T.Y.さん 50代)

・東日本大震災が起きたときはまだ学生でアルバイトをしていました。家に帰ると電気も水も止まっていることに衝撃を受けました。懐中電灯とロウソクだけで過ごした夜はたった数日でしたが、もうニ度と同じ経験はしたくないと思うほど不安でいっぱいでした。今は家で懐中電灯やバッテリーを多めに保管しています。

(みいままさん 20代)

・電車が止まってしまい、初めてお会いした方とタクシーにあいのりさせて頂きました。寒い日だったので外を歩かずに品川駅まで同乗させて頂けたのはありがたかったです。品川駅のホテルロビーで、一緒に乗り合わせた方の家族の方が自家用車で迎えに来て下さるのを待ち、道が混雑していて進めないとおっしゃるので、品川駅から青物横丁交差点近くまで歩きました。私にとっては、人の優しさに助けて頂いた日でも有ります。

(ななのままさん 50代)

・ディズニーリゾートで被災。当時はガラケーだったため、充電器を持ち歩く習慣がなく、家族と連絡を取るにもなかなか繋がらず、電池残量ばかり気になっていた。液状化で道路がボコボコの中、彼氏(現在の主人)のお父さんが車で迎えにきてくれた。売り物のおかしや炊き出し、飲み物も提供してくれて、さすがの対応だった。近くにいた主婦グループにも助けてもらい、そこまで恐怖を感じずに帰宅することができた。人の温かさを感じることができた。帰る道中の地震警報アラーム?が何度もなって怖かった。(かなりんままさん 30代)

・自宅で洗濯したズボンをしまおうと廊下にいたら激しく揺れた。ズボンを持ったまましゃがんで揺れが収まるのを待った。震源地を確認する為にテレビをつけた。外に逃げるなら寒いからとジャケット、カイロ、カギ、スマホを準備したが室内にとどまった。家族に電話も通じず1人で家にいるのは不安だった。しばらくは地震酔いに悩まされた。(テツさん 50代)